わたしの場合。

ぼちぼちな生活。教育。四季折々。コメントもお気軽に。

マスクをできない人も優先席に座っていいと思うよ

※ノーマスク推奨ではありません。

 

マスク着用が当たり前になっている昨今、ネット上でも街中でも、マスクをしていない人に対する指摘が溢れている。

 

今回私が考えたのは、「マスクをしないで公共交通機関の優先席に座る人」についてである。

 

私は、それぞれ事情があると思うので、特段騒ぎもしないし、不快に思うこともない。人は履歴書や病歴をゲームのステータス画面のように表示しながら歩いているわけではない。けれど、誰もが事情の一つや二つは抱えているものだ。

だから我慢しろというのではなく、大きく迷惑を被るわけでなければ、寛容でありたいと私は思う。

もちろん、大声でのお喋りや飲食、咳やくしゃみは勘弁して欲しいと思う。せめてハンカチで塞いでいただきたい、もしくは落ち着くまで駅のホームの隅の方でお過ごしいただきたいと思う。

 

ただ、今回考えたのは「マスクをしないで公共交通機関の優先席に黙っておとなしく座る人」についてである。これならばどうであろうか。

今回は感覚過敏と嗅覚過敏について考えてみた。

 

例えば、感覚過敏でマスクをつけるのが非常に難しい人がいる。私はこれは着けられなくても仕方ない、静かにしている分には責めないし変な目で見ることもないよ、と思う。

感覚過敏の場合、マスクを着用すると、例えば肌に刺激物(超強烈メントールなど)を塗りたくられたような痛みや痒みが出たり、絶えずくすぐられているような感触で他の何も集中できないほど気が散ったりするらしい。

タートルネックのニットがチクチクして苦手という例はよく聞くが、その20倍くらい気になるのだろうな、と思う。

そういう人もつけられるマスクの開発(そして庶民が購入可能な価格)を願うが、近くのドラッグストアのマスクコーナーには残念ながらそういう人もつけられるのがウリのマスクは、ない。

 

また、嗅覚過敏でマスクをつけるのが非常に難しい人もいる。

新車の匂い、クレヨンの匂い、本屋の匂い、匂いは色々ある。

私はマスクの匂いが苦手ではないから毎日つけているが、確かになんというか、ある。マスクの匂い。

ちなみに私がよく使っているのはユニチャームのものである。2019年の末から使い捨てタイプを購入・使用している。

先述した「環境の匂い」からは「その場を離れる」ことで逃げられる。しかし、マスクを装着した場合、マスクの匂いからは逃げられない。

私のように「まあ匂いはするけど、そんなに気にならないよ」という人ばかりではない。

これについては「鼻の前で絶え間なくオナラをされて非常につらい」もしくは「鼻の前で絶え間なく苦手な香水のスプレーを噴射されて非常につらい」くらいにつらいのだと想像する。

 

そもそも優先席は、体の不自由なお客様、持病のあるお客様、妊娠中のお客様などが座りやすいようにと設けられているはず。

マスクを着用できない事情のある優先席使用者がいても何ら不思議はないし、かと言って冒頭でも書いたように履歴や病歴を表示しながら歩くというのも「弱者にプライバシーは無い」ことになり、そんな社会は私は嫌だ。

 

「感覚過敏でマスクをできません」というバッチやステッカーを作った当事者がいた。

身を守るために。

「花粉症です」というスタンプやバッチを作った当事者がいた。

身を守るために。

 

当事者が、街中で他人に理解を求めるために手を打つことは、理解促進・啓発・自身の保護という観点から、役に立つと思う。

でも、義務ではないし、目印をつけなくても、誰もが生きやすくなるといいな、と思う。

 

マスクをできない理由があるのか、見た目では分からない。

でも、私は寛容でありたいと思う。

 

ただ、昨日電車で隣に座ったおじさん、くしゃみはやっぱり塞いで欲しいな。反対側を向いても飛沫は飛ぶし、おじさんが向いた側の壁にはおじさんのツバがたくさん飛んでついてしまうわけだから。

 

おわり

 

 

教採と校長の思い出②面接練習

前回


https://cosicosi-life.hatenablog.com/entry/2021/08/21/012955


二次試験の数日前、校長が面接練習に付き合ってくださることになった。


私は精一杯話した。

名前はハキハキ、面接官の首元を見て、熱い思いを語る!


一通り模擬面接が終わって、どうでしょうか?と訊ねると


校長「いやー中身は悪くないんだけどね、喋りすぎ。もっと質問させてよ」


私「えっと…余計なこと言いましたか!」


校長「そうじゃなくて。もっと聞きたいと思ったらこっちから質問するから、あんまり長く喋らないでよ。飽きるよ。一緒に働く仲間を採用するんだからさ。質問には、一緒に働きたい!と思わせるような返しをして、質問させるんだよ。奇抜なことを言う必要は無いけど」


というようなことだった。

例えば、

大学時代にはどんなことをしてきましたか?

という質問には

「はい!大学時代は〇〇学科で〇〇の勉強をしてきました。また〇〇サークルでは〇〇をしてきました、〇〇という役職も務めました。これらの経験を教員として〇〇にぜひ役立てたいと考えています!」

のように、だらだら長々と元気いっぱい答えたのである。


今考えてみると、なんと一方的なことか。


面接は、やりとりである。

働き始めてから、保護者との個人面談で、こんなにブワーっと喋ったら保護者とのコミュニケーションは成り立ちにくい。


一問一答で短ければいいというものでも無いけど。


校長「一緒に働きたいな、面白いやつだな、もっとその話聞きたいぞ、と面接官が思えば、掘り下げた質問をしてくる。そうでもない場合には違う話題に行く。」


私「はい。」


校長「笑顔はいいが、少し自信なさげに話すことがある。もっと、『あたしを取らなきゃ損しますよ!』くらいのつもりで話していい。ただ、長いのは勘弁してくれ。短く、魅力的に。授業でも同じだからそれ。」


この校長には色々振り回されたけど、基本を教えてもらったと思っています。


おわり。

教採と校長の思い出①一次合格から面接の話へ

私は大学を卒業したその年は、午前中だけの講師をしていた。

理由は主に下記の3点である。

・大学4年次の時点で、正規教員になるか決めかねていた

・地元の採用試験には落ちた(逆上がりがどうしても出来なかった)

・安定した食い扶持が必要だった

 

そして卒業して4ヶ月目、つまり働き始めて4ヶ月目の7月、講師として働いている自治体の教採を受けた。

 

5月頃より勤務先校長から

「子供に対する関わりが良い感じだから教員になってほしいなー」という勧誘と、

「現場で(子供対応がとてもgood

な先生のもとで)日々過ごすことで事例に対する作文のネタは集まっただろうし、午後が勉強に充てているのなら大丈夫だろう^_^」という、期待という名の緩い圧を受けていた。

実家住まいでもなく、勉強に身が入らない日には、校長のその期待が私をツツンのツン(*´゚∀゚)σ)'ω`*)と刺激した。

 

 

そして2次試験への切符を手に入れ、受けることになった。

きっかけは主に下記の3点である。

・勤務先で日々仕事をする中で、手応えを感じた

・地元の採用試験が採用人数0になった

・実家に帰れないため、自力で生活する為に、安定した食い扶持が必要だった

 

 

勤務先校長から「1次合格が分かったら連絡するように」と言われていた。

 

発表の翌日、電話で連絡をした。

校長「おう、おめでとう。面接練習するけど、いつがいい?ついでに書類も得意な先生に見てもらうと良い」

残業が嫌いで、面倒見の良い校長だった。

 

1次合格報告だけのつもりが、面接書類助言と面接練習の日程が、あっという間に決まった。


続き

 https://cosicosi-life.hatenablog.com/entry/2021/08/21/013008

公立小学校での実習〜給食編〜

公立小学校での実習の思い出。

 

私は毎日緊張していました。

 

みのりのある実習にしよう、お忙しい中受け入れてくださっていることを常に忘れず、子どもには笑顔で接したい、先生の発問や関わり方とそれを受けての子供の反応をしっかり見ておこう、自分が受け持つ授業はどうしようか、、、

 

若かったあの頃、何も怖くなかった♪

などということはなく、

常に緊張ゆえ、

 

食欲が出ない!!!

 

普段はラーメン屋で替え玉をしていた私。

普段はトンカツ屋でご飯とキャベツと味噌汁をお代わりしていた私。

 

でも実習中は食欲がなく、常に喉を締め付けられるような緊張でいっぱいでした。

 

 

忘れもしない、実習2週目の給食は、

白ごはん、麻婆豆腐、中華サラダ、牛乳。

 

子供と同じ量でキープしたものの

残り時間あと5分、完食まであと少しというときに

 

担任の先生から「余ってるから食べ終わりそうな人に配りますよー!」

私「あ、私はいいです、ちょっと食欲が、、」

担任「そんな遠慮しないで!一人暮らしでしょ!先生若いんだからたくさん食べて栄養つけて!」

 

結果、完食できず。

 

子供たち「先生具合悪いの?」うんちょっとおなかいっぱいでね😅

子供たち「あー!残しちゃいけないんだー!」うん、ごめんね明日は頑張るね😌

担任「あらどうしたの!多かった?」あ、はい😅

 

今でも麻婆豆腐が出るたび、超緊張の実習を思い出します。

ちなみに、学校給食の麻婆豆腐、冷凍のサイコロ豆腐を使いがち。

おしまい。


#教育実習

#給食 

春から放送大学、あとお茶

春から、放送大学の選科履修生になります。

昨日、学費の支払いを済ませました。

 

私は、4年制大学を卒業し「学士(教育)」を持っています。

学士とは

大学における教育の課程の修了に係る知識・能力の証明として、学術の中心として自律的に高度の教育研究を行う大学が授与するものという原則は、国際的にも定着している。

(学位授与等) :文部科学省

 

というものです。

ちなみにWikipediaによると

  1. 現在の学位の1つ。博士の学位、修士の学位および専門職学位に準ずる。この項目で解説する。学士の学位は「学士(専攻分野)」と表記される。通称して学士号といわれる。学士に準ずる学位として短期大学士、学位に準ずる称号として準学士がある[1]
  2. 1991年の学校教育法および学位規則の改正まで、大学を卒業した者に与えられていた称号。現在の「学士の学位」の前身。専攻分野ごとに定められた固有の名称を称した(例)法学…法学士、経営学経営学士。

学士 - Wikipedia

 

とあります。

私の学位は1992年以降に取得した「現在の学位」です。

 

修士持ちは大学院修士課程を出ていて、博士持ちは博士課程を出ていることが一般的です。

しかし!博士課程に在籍していなくても、研究歴や論文、実績を大学に認められれば、博士号を取得することは可能です。(俗に「論文博士」と呼ばれる)

ただ、(入試と学費納入を済ませ)大学院博士課程に在籍していれば当たり前に享受できる「ゼミ参加や教授による論文指導」が、論文博士はありませんので、取得は超大変です。

 

 

話を戻します、私は学士(教育)です。

大学全入時代だなんだマスコミは言いますが、学士という学位をいただいています。

学士としてオッケー出せるくらいにこの人は勉強してきましたよ、という証明です。

 

しかし、私は最近心配になりました。

私は、学士相応の知識と知見を持っているだろうか、と。

 

心配になった大きなきっかけは、下記の二つです。

①教員免許更新講習を受けた際、久しぶりに耳にした用語が珍紛漢紛(とまでは言わないが、知識があやふやだと感じた)

②保育士資格をそのうち取ろうと開いた参考書の教育心理ページを見て「フレーベル…絵本の背表紙によく書いてあるけど人名だったか…」「ペスタロッチって聞いたことあるけど、何した人?」

 

普段生活する上でも、また教育職として日常的に労働する上でも、フレーべルやペスタロッチの名前を口にする必要は皆無です。

しかし、私は

①学士(教育)で、また教員免許も持ち

②教育職としてお金をもらって働いた経験があり

③今後も教育職としてお金をもらって働く意思がある

ということは、大学時代に学んだ教育法規や教育心理について「先人の知恵」として学び直し今後に活用していくことは役に立ちます。

何より「学位(教育)」と胸を張って言える。(言わないけど。)

 

そうこう考えているうちに、最近ますます関心がある「特別支援教育」について私の理解は浅すぎる、もっと学びたいぞ!と思いました。(唐突だなおい)

 

そして、せっかくなら免許も取りたいぞと思い立ちました。(唐突だなおい2回目)

 

調べたところ、放送大学なら5万円ちょっと(入学金+8単位分の授業料)で特別支援の2種免許を取得できることが発覚。

そして、放送大学の講義は、その道の詳しい方(多くは他大学の教授)たちが授業を受け持っていると発覚。

星槎大学佛教大学の通信でも取得可能だけど放送大学は断然安い。

 

そんなわけで、その日のうちに資料を取り寄せ、放送大学に選科履修生として出願。

無事合格、昨日入金を完了しました。

 

しかし高まった知識欲、おさまらず。

今回履修するのは4科目8単位ですが、放送大学のテレビ・ラジオで他にも7つの番組を視聴する予定です。

 

例えば・・・

はじめての気象学 ← 幼少期から天気に興味がありお天気お姉さんになりたかった

西洋音楽史 ← 趣味。

方丈記徒然草 ← 面白そう

初歩のイタリア語 ← 大学の第2外国語で取ったけどすっかりさっぱり忘れた

 

ね、面白そうでしょ。

 

それから最後に。

10数年ぶりに茶道を再開しました。

季節の移ろいや、無駄のない一連のお点前、道具の由緒、先生とのやりとり、亭主お客様それぞれの振る舞い。

あとお菓子。

何をとっても面白い。

 

今年、私は

放送大学で、学士(教育)の学位に恥じぬよう、見識を広げ、深めたい。

茶道を通して自分の器を豊かにしたい。

共通理解という言葉を理解できない私

職場で偶に耳にする「共通理解」という言葉は適切なのだろうか。


「共通の認識」もしくは「共通の理解」という言葉を用いる方が適切ではないかと思う。


共通に理解してほしい理解させたいという意図は見える。しかし、共通理解という言葉の指す意味が曖昧でその概念については共通に理解されているとは言い難い。と私は思う。