1/29も歩いた
少しずつね。
この日は12120歩。
昨日も歩いた
少しずつ、少しずつね
毎日歩くことにした
毎日歩くことにしました。
体力を取り戻すためです。
療養生活に入ってから、毎日1万歩を目標にした時期もありました。
しかし、それだと続かない。
できて数日。そして回復に数日かかる。
つまり週の半分は動けなくなるのです。
毎日一万歩の継続は、今の私には高すぎる目標で、できなかった時に「まだダメなんだな」と認識してしまいます。
そこで、
毎日五千歩
歩くことにしました。
これなら無理なく続けられそう。
バタンキューしないで動ける基礎体力をつけたいです。
筋トレの日常化は、まだちょっと早いと思っています。
できることを少しずつ増やす。
無理矢理ポジティブ化とか苦手なんです。
自分を客観的に見て、小さな変化も認める練習です。
ヘアオイルを
手に取って
顔に塗った
洗い流したけれど
すこししっとりしている気がする
おもちになっていただきますよう、おねがいもうしあげます。
感染防止のため、精算済みの商品へのテープ貼り付けを中止しております。
お手数ですが
お会計が済みましたら
店を出るまでの間
レシートはおもちになっていただきますよう、おねがいもうしあげます。
!?!?!?!?
レシートは
お餅になーーあれ♪
って言ったらお餅になっていただけるんですか!
お願い申し上げたら
感熱紙が
お餅に変わるんですか!!!
石をパンに変えたイエス様並みじゃないですか!!!
さすが、米の国、日本。
いや。そうじゃない。
今日、100円ショップを訪れた際の店内放送にて。
タンメン、一つ
シーズンに1度、通院している病院がある。
その帰りには、いつも大きな墓地の周りをぐるりと歩く。散歩しながら季節の植物を観察するのが、ちょっとした楽しみだ。これを散策というのだろう。
古くからある霊園で、一般人だけでなく将軍や有名政治家も眠っている。
先日の通院終わりにも同じように散策をした。朝は茶漬けしか食べておらず、あまりにも空腹だったので、霊園前の中華食堂に入った。
どうやら家族で営んでだいぶ長く、今の店主は4代目。
私は、店内中ほどの席に通され、一押しの「ラーメン餃子セット」を注文した。
店内はとても清潔で、BGMはジャズ。なかなか居心地が良い。
入り口からすぐの席には、墓参りを終えた老夫婦、奥の席には地元の中年男性2人組。
隣の席は恰幅の良い男性。地元の問屋主人のようで、食堂の女将と「この間はありがとうございました」「この間のは半年寝かせたものなんですよ」「そんな手のかかったものを、通りでとてもよく…」「いいのが入ったらまた連絡しますよ」そんな会話をして会計を済ませ、店を後にした。
店内の観察をしていると、ラーメンと餃子が運ばれてきた。
これは立派なジャンボ餃子。肉汁ジュワ、野菜の甘味、もちもちの皮。
猫舌なのに、ぺろりと食べてしまった。
ラーメンもオーソドックスで安心できる味とトッピング。
舌鼓を打っていると、隣の席に初老の男性がやってきた。
襟付きシャツにジャケット、折り目のついたウールのパンツを纏い、背中をしゃんと伸ばして椅子に腰掛けた。取り出したのはスマホではなく手帳だ。何かを確かめ、ジャケットから取り出したボールペンで何かを書き留めたのがわかった。
思わず私も、姿勢を正す。
男性にお冷が運ばれてくると
「タンメン、一つお願いします」
静かにそう言った。
私の勝手な妄想だが、男性は友人の墓参りに来たのだ。
若い頃から家族ぐるみで親しくしていた友人。しかし友人は幼い子供を残して齢40にして他界。
妻とともに友人の命日には毎年墓参りをし、この中華食堂で2人食事をしていたが、最愛の妻も2年前に旅立ってしまった。
彼にとってきっと思い出のタンメンなのだ。
そんなことを考えながらスープを啜っていたら、私の丼は空になっていた。
気がつけば入り口の客も入れ替わり「半チャン半ラーメン頼んだんだけど、これ1人前チャーハンじゃないか」というお客からの指摘。
あらあら。私が食べてあげたい。(そういう問題ではない)
ご馳走様。
いちご大福を受け入れられなかったあの頃の私は何て小さかったのだろう
いちご大福、意味がわからない。
大福とは中に餡子が入っていて外に粉をまぶしたものである。
そもそもは大福ではなく、鳥の鶉(ウズラ)に似てふっくらした形の「鶉餅」として江戸時代初期から民衆の間で広まった。
それを元に江戸小石川(現在の文京区小石川地区)の未亡人が小型化・簡易化したといわれている。簡単につくることができ腹持ちがよく大福のもととなる。
行商が売り歩くようになり、冬には焼いたものを売り歩いた。
そりゃそうだ。寒い日には温かいものを求めるのが人の性だろう。
今も冬のコンビニでは、おでんや肉まんがよく売れる。
ちなみに最近の私は、ひとりごまあんまんブームである。
話を戻す。
腹持ちのよいことから、「大腹餅」と呼ばれたそのカンタン鶉餅は、「ダイフクモチ」という音から「フク」の部分を吉字である「福」に置き換えて人々に受け入れられ、そして現在まで親しまれている。
ちなみに、元となった鶉餅であるが、長野の千曲川沿い、武水別神社由来と言われている。
https://uzuraya.net/uzura-mochi.html
あの羊羹で有名な虎屋さんでは慶安4年から販売しているらしい。なかなか歴史がある。
https://www.toraya-group.co.jp/toraya/products/namagashi/uzuramochi/
で、だ。
外側の生地によもぎを入れてみたい(よもぎ大福)、豆を入れてみたい(豆大福)、大いに結構である。
よもぎや豆を加えているが、腹持ちが良いことには変わりない。
語源と照らし合わせて、理に適う。
そこで、いちご大福。
腹持ちが良いはずの大福にいちご。
いちごは好きだ。大好きだ。
しかし、腹が膨れるかというと、些か疑問である。
いちご大福に入っているいちごは大きい。
しかし腹が膨れることがあろうか。いや、ない。
語源から考えると明らかにおかしい。
ただ私も鬼ではない。
いちごを入れてみたら美味しいかもしれない、その気持ちは分からないでもない。
実際、いちご大福という名前を知らずに、小学生の頃、母が職場で同僚からいただき持ち帰った、いま考えていればいちご大福であるあの謎の皮に包まれたいちご食べた時は
「美味である」
そう感じた。
しかし大福としてはなかなか認め難い。美味であるが。
私は考えた。
納得するためには落とし所が必要である。
例外的な大福として定義付けることが最良ではないか。
例外的に果物を中に入れた異端大福としてなら受け入れられる。
もちろんフルーツ大福業界は、私の納得も許しも必要としていない。分かっている。
しかし、いちご大福という存在や定義を受け入れられないにも関わらず「美味である」と感じてしまう私がこの世で生きていくためには、納得が必要である。
受け入れよう、いちご大福を。
大福ではないけれど、例外的に果物を中に入れた大福として。
おわり。